セッション情報

それはまるで宝石箱のように アルマミニノベル ルマンドさん

それはまるで宝石箱のように アルマミニノベル ルマンドさん

リトル・シスター

彼女には記憶が無かった。自分がどこで生まれ、どのように育ち、生きてきたのかがまるで分からなかった。
彼女の記憶はこの小さな教会から始まっていた。彼女が教会のベッドで目を覚ました時、最初に目に入ったものは、彼女を介抱した教会のシスターの優しげな顔であった。
教会は記憶のない彼女を受け入れた。彼女はシスターを母のように慕い、教会のために働いた。やがて彼女は、教会が信奉する〈ヒト〉の教えについて学ぶようになり、修道女見習いとなった。
教会は、王都パグマイアを取り巻く沼地(マイア)に点在する村々のうちのひとつにあった。村には二十世帯、百名ほどの犬たちが暮らしており、教会は村の中心にあった。
彼女は、教会を訪れる村犬に献身的に接した。村犬たちはそれを快く思い、彼女のことを親しみを込めて〈リトル・シスター〉と呼んだ。

「迷っているのですか?」シスターは祭壇の前でひざまずき、祈りを捧げているリトル・シスターに話しかけた。
話しかけられた彼女は、ひざまずいたまま振り向きシスターを見上げた。そして立ち上がり、シスターに向き直って言った。
「はい、シスター。迷っております」彼女は伏し目がちに応える。
「記憶の無いわたしのような者が、ヒトさまの教えを説く牧師(シェパード)になる資格が果たしてあるのかと、自問しておりました。ああ、シスターお教えください。わたしはどうしたら良いのでしょう?」リトル・シスターは悲痛な表情で言った。
彼女の問いに対し、シスターは優しげな顔で応えた。
「それは貴方自身が決めることですよ」シスターの返答は、幾分つきはなしたものであったが、声の調子は慈しみに満ちあふれていた。

ここ数日間、リトル・シスターを悩ませているのは、王都の教会本部から送られてきた一通の書状にあった。書状には、もし彼女が望むのであれば、正式に牧師となることを許すと書かれていたのだ。
正式な牧師になれば、王都や各村々にある教会で布教活動を行うことになる。
また、開拓団に入り〈ヒトの遺産〉の探索任務に就くという道もある。いずれにせよ、この村から出て、教会のために働くことにはなる。
教会本部からの書状を読んだシスターは、彼女を祝福した。彼女の修道女見習いとしての働きが、教会本部に認められたからだ。また一方で、牧師には成らず、今のままこの教会に留まるという選択肢も与えた。牧師として生きていく苦労や苦悩を、シスター自身、身に染みてわかっていたからだ。
しかし、リトル・シスターは知っていた。実入りの少ないこの小さな教会では、自分ひとりの食い扶持が、教会の財政に過度の負担を掛けていることを。少し色あせた僧衣を身にまとい、日々、犬々にヒトの教えを説くシスターを見るにつけ、彼女の心は痛んでいた。自分が牧師になりこの教会を出れば、シスターの暮らしぶりが少しは良くなるに違いないのだ。
苦悩する彼女に、シスターは優しく語りかける。
「もし貴方が良ければ、明日、王都の聖アナ礼拝堂へ行ってらっしゃい。たしか、まだ行ったことが無かったはずよね。荘厳な礼拝堂でヒトさまに祈りを捧げれば、きっと何かを得られるはずよ」
シスターの助言に彼女はうなずいた。たしかに、ヒトの導きがあれば、自分自身が最善と思える答えに辿り着けるかもしれない。彼女は王都の教会へ行ってみることにした。
それに王都には、彼女が相談してみたいと思っている犬が住んでいた。
その犬はグスタフという名の開拓者で、たまにこの教会にやって来ては、彼女のことをなにかと気にかけてくれていた。彼女は教会本部のほかに、開拓団を訪ねるつもりでいた。
グスタフに会えると思うと、なぜか彼女の胸は高鳴った。
だが、特定の男性に想いを寄せることなど、修道女にあるまじきことである。そのことを十分に自覚している彼女は、これは何かの間違いであると無理やり決めつけ、その想いは胸の奥深くにしまっている。

***

あくる日、彼女は王都を訪れていた。
彼女にとって、王都パグマイアは初めての場所のはずであった。
石造りの高い城壁で囲まれ、通りに石畳が敷き詰められ、数えきれないほどの建物がひしめき合い、多くの犬たちが行き交う大都市。この都市を初めて訪れたものであれば、しばらくはその風景に圧倒されることだろう。
しかし不思議なことに、彼女にそのような感慨が沸き起こることは無く、目の前の風景をただ当たり前のものとして受け入れていた。

まず彼女は、教会本部が置かれている聖アナ礼拝堂を目指した。彼女はほとんど迷うことなく、礼拝堂に着く。
礼拝堂の扉を開けると、中からひんやりとした空気が流れ出てくる。礼拝堂の中は広く、奥の祭壇に続く通路には青い絨毯が敷き詰められている。通路の両側には礼拝用の長椅子がいくつも並べられており、祈りを捧げる信者の姿がぽつぽつと見える。
彼女も長椅子に座ってヒトへの祈りを捧げる。リトル・シスターは長い時間をかけ、信仰の対象であるヒトとの対話を続ける。
しかし、自らが最善と信じる答えを得ることはついに叶わず、彼女は自らの不信心を恥じ、ため息をついた。
諦めて椅子から立ち上がろうとした時、突然すぐそばを通りかかった老婆が話しかけてくる。
「アルマお嬢様ではありませんか?」
リトル・シスターは驚いて老婆を見上げる。老婆は茶色い毛のコーギーで、目に涙を浮かべている。
「ああ、やはりアルマお嬢様だった! あれから、今までどうされていたのです? わたくしども使用人は、とても心配していたのですよ。旦那様におかれては心労ですっかり弱ってしまわれて。今ではあの時のことを、とても後悔されておられるのですよ。さあ、わたくしめがともに行きますから、今すぐ旦那様のもとへ参りましょう」老婆はリトル・シスターのそばにひざまずき、手を握り締めて訴えかけてくる。目からは大粒の涙が零れ落ちている。
リトル・シスターは、突然、見知らぬ老婆に話しかけられ、さらには自分が他の誰かと間違われていることに困惑していた。だが、すぐに落ち着きを取り戻し、優しい口調で応えた。
「あの、おばあさん。わたくしのことを、他のどなたかとお間違えになられていると思いますの。だって、わたくしは、おばあさんのことをまったく存じ上げないのですもの」
それを聞いた老婆は一瞬、動きを止めたが、すぐにリトル・シスターの方へにじり寄り、さらに強く手を握りながら言った。
「いいえ、貴方様はアルマお嬢様です。わたくしが奥方様のお腹から取りあげ、育て上げたのです。わたくしが貴方様を見まごうはずがございません!」
リトル・シスターは混乱していた。小さな教会のベッドで目覚めてからの記憶しかない彼女の自我は、突然現れた老婆の言動により激しく揺さぶられていた。目眩がして、礼拝堂の床がぐらぐらと揺れている。頭の芯がずきずきと痛んだ。
彼女は老婆の手を振りほどき椅子から立ち上がると、老婆から逃れるため、よろめきながら礼拝堂の扉へ向かった。
扉を開けた時、背後で老婆が泣き叫ぶ声が聴こえた。

***

いつしか彼女は、開拓団の建物の前に立っていた。
彼女は思った。とにかく、グスタフと会って話がしたい。彼ならきっと自分の力になってくれると。
開拓団の扉を開けると、部屋の中にはいくつかの丸テーブルがあり、十数名の開拓者と思われる犬たちが座っていた。
彼女がグスタフの姿を求めて心細げに部屋の中を見渡していると、一頭の老犬が話しかけてくる。
「やあ、お嬢さん。王立開拓団に何の用かね。仕事の依頼なら、受付は奥のカウンターじゃよ」
「いえ、あの……」彼女は少しためらいがちに言った。
「ここにグスタフという開拓者の方がいらっしゃるはずなのですが」
「あんた、グスタフとはどんな関係だ?」
リトル・シスターがグスタフの名を口にすると、老犬の表情がにわかに曇り、詰問口調になる。
彼女は自分がグスタフの友人であり、彼に会うために沼地の村の教会からやって来たことを話した。
老犬は彼女の話を聞くと、何かに思い当たったようで、その態度を軟化させた。
「あんたがあの……。ああ、何でもないんじゃ、気にせんでくれ」老犬はそう言って、彼女に近くのテーブル席に座るよう促した。
老犬も同じテーブル席に座り、腕を組んで、黙ったまま天井を見上げている。
そして思案がまとまったのか、リトル・シスターに向き直り言った。
「実はな。グスタフとは昨日から連絡が取れんのだよ。それでワシも奴の居所を探しているところでな。だが、奴の足取りはいっこうにつかめんのだよ。あんた、奴から何か聞いたりしておらんかね? どんな些細な情報でもいいんじゃ」
リトル・シスターは、ほとんどうわの空で老犬の話を聞いていた。
彼女の心はグスタフ失踪の事実で占められており、他が入る余地はまったく無くなっていたのだ。

『あの方が居なくなってしまった??』

卑劣な罠

前日のことである。グスタフは開拓団宿舎の自室で、差出人不明の郵便物を受け取った。それは麻ひもで封印された木箱で、なかには手紙と鉄製の仮面が入っている。
手紙にはこう書かれている。

グスタフ殿
貴殿の妻を預かった。返して欲しくば、日没後、同封している仮面を着け、西の共同墓地で待て。
そして、仮面を着けたもうひとりの男が現れたら、これと対決し倒せ。そうすれば、妻を返してやろう。
なお、このことは他言無用である。妻と連絡を取ろうともするな。少しでもそのそぶりを見せれば、お前の妻の命は無いものと思え。貴様のことは常に見ているぞ。

グスタフは目眩を覚え、危うく床に倒れそうになった。かろうじて、すぐそばにあった椅子につかまる。
彼は、しばらく動悸が静まるのを待ち、その後、手紙といっしょに入っていた仮面を手に取った。仮面は狼を模したもので、その口は大きく禍々しく開かれている。
グスタフは素早く周囲を見回したが、窓の外にも廊下にも人影はない。
これは罠だと、グスタフの直感は告げていた。彼が妻帯者であることを知るものは少なく、ましてや妻が住んでいる村のことを知るものとなると、数人の開拓者に限られる。彼らがグスタフの妻の居場所を、たやすく漏らすとは考えられなかった。
しかし、それでも妻の命を盾に脅されている以上、グスタフはその脅迫に屈するほかなかった。
グスタフは武器を装備し、背負い袋に手紙と仮面を入れ部屋を出ようとする。だが、すぐに考え直して、机へと引き返した。
机のうえの羽ペンを手に取り、ペン先をインク壺に浸すと、文字を覚えるために広げてあるアルファベット表にしるしをつける。
仮に自分が帰還しなかった場合、何か証跡を残しておく必要がある。それも、彼を見張っているであろう脅迫者に気付かれることなくだ。
グスタフは今度こそ指定された場所に向かうため、部屋の入口のドアを開けると、ちょうど通りかかった古参の開拓者と鉢合わせする。
「どうした、血相をかえて」〈ハンター〉のクリストファーが話しかけてくる。
「ああ、クリスか」グスタフはうわずった声で応えた。
一瞬、グスタフは、クリストファーに脅迫状の件を相談しようかと考えた。だが、今このときも、自分を監視している者の存在を思い出し、すんでのところで踏みとどまった。
「いや、なんでもないんだ」グスタフはそう言って、その場をあとにした。
クリストファーは少し腑に落ちない表情で、グスタフを見送った。

***

グスタフは壁外にある共同墓地で日没を待っていた。
墓地のなかは、大小のさまざまな形の墓石が不規則に並んでいる。また、墓地の内外に群生するブナなどの広葉樹で日光を遮られているため、辺りは日中でも薄暗い。
やがて日が陰り、墓地のなかがいっそう暗さを増すころ、グスタフはすぐ近くの茂みに気配を感じた。
グスタフは静かに剣を抜き、墓石のひとつを背にして、気配のする茂みの方をじっと窺う。
しばらくの間、彼は微動だにせず、茂みを凝視し続ける。
そうしているうちに、とうとう日が沈み、辺りが暗闇に包まれる。すると、茂みから人影があらわれた。
人影はゆっくりとした足取りで、グスタフの方へ歩いてくる。
近づくにつれ、相手はフードを目深にかぶり、顔にはグスタフと同じように仮面をつけていることがわかる。狐の顔を模した仮面だ。
突然、狐の仮面の者が、腰に吊っているレイピアを抜刀し、グスタフに飛びかかってきた。
狐面の者は、グスタフの喉首めがけて鋭い突きを放つ。
グスタフはステップを踏み、体を右にひねってこれを交わした。レイピアの切っ先がグスタフの鼻先をかすめていく。
グスタフは体勢を崩しつつも、左手に持っていた盾を突きだし、相手を牽制する。狐面は素早く身を引き、次の攻撃を繰り出すべくレイピアを構え直す。グスタフも体勢を立て直し、次の攻撃に備える。

しばらくの間、暗い墓地のなか、仮面を付けたふたりの者が死闘を繰り広げる。辺りには剣や盾がぶつかり合う音だけが響き渡る。
戦いながらグスタフは、ある違和感を感じていた。
それは、この敵がグスタフがよく知っている男ではないかという疑念だった。敵の剣さばきや足の運びに、見覚えがあるように思えたのだ。彼は思い切って声をかけた。
「グスタフだ! あんたアーロンじゃないのか?」
グスタフの呼びかけに、狐面の者は動きを止める。そして、双方ともしばらくの間、にらみ合いを続けた。
そして、ついに狐面の男が口を開く。
「本当にグスタフの旦那かい?」
「ああ、俺だ」グスタフは狼の仮面を外し素顔をさらす。
それにならい狐面の男も仮面を外した。仮面の下から黒毛の柴犬の顔があらわれる。
果たして、グスタフが予想したとおり、〈ラッター〉のアーロンであった。
「旦那、なぜここに?」
グスタフは、背負い袋から取り出したオイルランプに灯をともすと、自分あてに届いた脅迫状をアーロンに見せた。
手紙を読んだアーロンは言った。
「なるほど、あらかたの事情はわかったよ。旦那も俺も、誰かにはめられたってわけだ」そう言ってアーロンは懐から羊皮紙を取り出し、グスタフに見せた。それは、アーロン宛の脅迫状であった。

アーロン殿
貴殿の妹を預かった。返して欲しくば、日没後、同封している仮面を着け、西の共同墓地で待て。
そして、仮面を着けたもうひとりの男が現れたら、これと対決し倒せ。そうすれば、妹を返してやろう。
なお、このことは他言無用である。妹と連絡を取ろうともするな。少しでもそのそぶりを見せれば、お前の妹の命は無いものと思え。貴様のことは常に見ているぞ。

脅迫状には、グスタフのものと全く同じ内容が書かれている。ただひとつ、誘拐したとする人物が、グスタフの妻とアーロンの妹という違いがあることを除いて。

「つまり、何者かが俺たちをこの墓地におびき寄せて、同士討ちさせようとしたわけか」グスタフが苦い顔で言った。
「そういうことだ。どうやら俺たちは、そいつに相当の恨みを買っているようだな」アーロンが言った。
「心当たりはないな」グスタフが言った。
「知らずに恨みを買っているということもあるさ」アーロンはそう言って、近頃、D大公の別荘で見聞きしたことを手短に話す。
アーロンの話を聞くにつれ、グスタフの表情は深刻さを増していった。
話を聞き終わると、グスタフは言った。
「それでは、俺の農場を襲ったアナグマは、D大公の手先だったというのか。そして、大公はアナグマを倒した俺に恨みを持っていると」
「それは確かだ。現に大公の日記には、そういったことが書かれてあったからな。俺自身に対する恨みについては、別に思い当たる節が多すぎてなんとも言えんが、最近起こった出来事のなかでは、やはりD大公の件が筆頭に挙がるな。ところで旦那、さっきから囲まれているのに気づいているかい?」
グスタフが身構えて周囲に注意を向けると、アーロンが言うように墓石や樹木の陰にいくつかの気配を感じた。気配の数は五、いや、もっと多いか。
「まあ、このまま何事もなく帰れるとは思ってないけどな」アーロンは墓石のそばにしゃがみ込んで、何やらごそごそしながら言った。

やがて、黒いローブをまとった一団が、グスタフたちを取り囲む形で姿をあらわす。
そして、その中のひとりが進み出て言った。
「誠に残念なことだ。先ほどの戦闘で、お前たちのうち一人でも死んでくれていれば、こちらの手間も少しは省けただろうに」
グスタフは男が仮面を付けていることに気がつく。銀製の仮面で鷲の顔を模している。暗闇のなか、銀の仮面が周囲のわずかな光を反射し輝いている。
「何者だ? 誰の手の者だ? 俺の妻はどこだ?」グスタフは剣と盾を構え、立て続けに言った。
いつの間にかアーロンも立ち上がっており、レイピアを構え直している。
「おいおい、質問はひとつずつにしてくれよ。まあ、どの質問にも答えてはやらんがね」銀仮面の男が言う。
「だが、我々の目的は教えてやろう。それは、この世からお前たちを葬ることだ」そう言って銀仮面が合図する。たちまち数人の暗殺者たちが武器を抜き、グスタフたちに殺到する。

暗殺者のひとりがレイピアを抜き、グスタフに鋭い突きを入れてくる。
グスタフはステップを踏み、半身の状態で剣を突き出し、敵のレイピアの軌道に割り込ませる。敵の剣先の軌道はグスタフから外れ、替わりにグスタフの剣が敵の喉首に深々と突き刺さった。
喉を刺された敵は、血煙を上げながらどうと倒れる。
すかさず、別の暗殺者がグスタフに長剣を振り下ろす。グスタフは先の攻撃で体勢を崩したままであり、敵の攻撃をかわすことができない。
そのとき、グスタフの背後に隠れていたアーロンが、電光石火、敵の側面に飛び出す。
アーロンのレイピアが敵の喉をとらえ、二人目の暗殺者も地面に倒れ伏した。

その光景を見ていた銀仮面の男は、右手を挙げる。暗殺者たちはいっせいに動きをとめた。
「ほう、なかなかやるではないか。面白い、今度は俺が相手をしてやろう」銀仮面はレイピアを抜いた。
「お前たちは手を出すな」銀仮面が部下たちに命令する。彼らは少し離れ、戦いを静観する姿勢をとる。
「あの男、手強いぞ」敵の立ち振る舞いから、その技量を見抜いたグスタフは、小声でアーロンに警告する。
「ああ、旦那。わかっているさ」アーロンが応える。
銀仮面は音も立てずに、グスタフたちとの間合いを詰めてくる。
そして、両者の距離が十フィートほどに縮まったとき、突然、銀仮面が地面を蹴り、グスタフに突きを放ってきた。
グスタフは盾を構えて攻撃に備える。
だが、その攻撃はおとりであった。
銀仮面は着地と同時に体をひねり、攻撃の矛先をグスタフのすぐ横にいたアーロンへ向けた。
アーロンは意表をつかれたものの、すぐに冷静さを取り戻し、敵のレイピアを自らのレイピアで払う。
そして、アーロンはそのまま反撃にでた。敵の喉元を狙って、レイピアの鋭い突きを繰り出す。
一瞬、アーロンの突きが敵の喉をとらえるかに見えた。だが、敵は空中で体をひねり、攻撃の軌道から逃れると、着地するなり後ろへ飛び下がり、ふたりとの距離を取る。
「やるな若いの」銀仮面はうれしそうに言った。
「では、これならどうかな?」
銀仮面は再び前に飛び出し、間合いを詰めてくる。
グスタフとアーロンは敵の頭部を狙い、同時に攻撃を繰り出した。しかし、銀仮面は素早く地面すれすれに体を沈み込ませ、身をかわす。ふたりの攻撃は空振りに終わる。
と同時に、アーロンは胸部にすさまじい衝撃を受け、後方へふっ飛ばされる。
攻撃をかわした銀仮面が、そのままアーロンへと体当たりを食らわせたのだ。
アーロンは十フィート後方の墓石に叩きつけられ、衝撃で気を失ってしまう。
「やはり、同時に二人を相手するのは分が悪いのでね。差しでの勝負とさせてもらうぞ」銀仮面はそう言うと、グスタフに襲いかかる。
銀仮面は正確無比な突きを幾度も放ち、その尋常ではない攻撃にグスタフは防戦一方となる。グスタフは剣と盾を使い、銀仮面の攻撃をかろうじてかわし続ける。
敵の絶えざる攻撃なかで、グスタフは反撃の機会を待ち続けた。いかに優れた武芸者であっても、疲労と無縁なものはいない。攻撃を続けていれば、必ず何らかの隙が生まれるはずであった。グスタフは、敵の攻撃を避けつつ、銀仮面の挙動を観察し続けた。
グスタフが思ったとおり、ごくわずかであるが、敵の動きが鈍くなってきている。心なしか、銀仮面が肩で息をしているようにも見える。
そして、敵が突きを放とうと一歩を踏み出したとき、誤って足下の石につまずき、体勢を崩す。
グスタフは機会の到来を確信し、素早く上段に振り上げた剣を、銀仮面の頭部目がけて振り下ろした。
だが、それこそ敵の思うつぼであった。
銀仮面はわざと石につまずいたように見せかけて、グスタフの攻撃を誘ったのだ。
グスタフの鋭い斬撃はかわされ、その剣先は、銀仮面の男が来ていたローブの端をわずかに切り裂いただけであった。そして次の瞬間、敵のレイピアがグスタフの肩を深々と刺しつらぬいていた。
グスタフは背後の墓石にもたれ掛かる格好で倒れる。肩にはレイピアが突き刺さったままだ。
銀仮面はグスタフの肩からレイピアを抜くことはせず、そのまま話しかけてくる。
「農民出身と聞いていたが、なかなかどうして、たいした腕ではないか。いや、恐れ入ったよ」男は満足そうに言った。
グスタフは激痛のなか、肩に刺さったレイピアをなんとか抜こうともがくが、びくともしなかった。肩を貫いたレイピアの剣先からは、血が滴り落ち、墓石を赤く染めはじめる。
その様子を見て男が言った。
「ほう、まだ戦うつもりか。なんという強固な意志だ。何が貴様にそこまでさせる?」
「アルマを帰せ!」グスタフは出血と痛みでもうろうとしながら言った。
「アルマ? ああ、貴様の妻の名だったな」銀仮面は言った。
「ふむ、今の戦いに敬意を払い、その質問には答えてやろう。妻をさらったというのは、嘘だ。ここに貴様をおびき出すためのな」
それを聞いたグスタフは、安堵の表情を浮かべる。憎き敵の言ではあったが、その言葉には、なにかしら信用に足るものを感じたのだった。
グスタフの手足から次第に力が抜けていく。
「(どうやら、俺もここまでのようだな)」グスタフは覚悟を決め、敵のとどめの一撃を待った。
「貴様は殺さん」その様子を見て、銀仮面が言う。
「その武芸の腕、揺るぎない意思、賞賛に値する。ここで殺すのは惜しい」銀仮面はそう言って、グスタフの肩に刺さっていたレイピアを引き抜く。
「手当てをしてやれ。向こうで寝ている奴もな。それが終わったら、例の場所に連れて行け」銀仮面が部下に指示する。

「(アルマ……)」遠ざかる意識のなか、グスタフは妻のことを想った。

それはまるで宝石箱のように

「たぶん、この先にあるはずなんじゃが……」沼地(マイア)のぬかるみに足を取られながら、老犬が言った。あたりにはコナラやヤナギなどの、湿地を好む樹木が鬱蒼と生い茂っている。
「あんた、大丈夫か?」老犬は、すぐ後ろを歩いているリトル・シスターを振り返って言った。
「ええ、平気ですわ」リトル・シスターは応える。
老犬は彼女を観察する。沼地に入って半日、彼女の服は沼地の泥でかなり汚れてしまっている。だが、確かに彼女が言うとおり、その足取りに疲れは見られない。
たいしたものだと関心しつつ、老犬はさらに言った。
「わざわざ、こんな所まで付き合わせてしまって申し訳ない。泥にまみれるのは、ワシひとりで十分だったのじゃが」
「いいえ、わたくしの方が無理を言って同行させていただいているのですわ。あの、ミスター……」
「ああ、自己紹介がまだじゃったな。クリストファー・グレイハウンドじゃ。クリスと呼んでくれ」クリストファーは立ち止まり、彼女に手を差し出す。
「ええ、クリスさん」リトル・シスターはクリストファーの手を握り返した。

今、ふたりは、かつてグスタフの農場があった場所へと向かっていた。グスタフの行方について、何らの手がかりも得られぬ現状において、そこで何かがわかるかもしれないという、クリストファーの考えによるものであった。
クリストファーは、以前、グスタフから農場のことを聞いていたことがあり、その大まかな位置もわかっていた。ふたりはグスタフから聞いた話をたよりに、沼地を進み続けている。

「お嬢さんは??」クリストファーは歩きながら、背後のリトル・シスターに話しかける。
「はい」彼女は、足下の泥の深くなっている場所を避けながら応えた。
「その、グスタフとは友人の間柄だと言っていたが、やつとは長いのかね?」
「グスタフさんとは、半年ほど前にお知り合いになりました。ある日、突然、わたくしがお世話になっている教会に訪ねてこられたんです。その時は犬捜しのためにやって来たそうで、そう言えば、最初はわたくしのことをその犬と見間違えていたようですわ。それから、ちょくちょく教会を訪ねてくるようになって、その度にいろいろとお話をさせていただいておりましたの。でも、どうして?」リトル・シスターは、クリストファーの質問の意図を問うた。
「いや、あれだ。グスタフのためにこんな沼地までついてくるからには、お嬢さん、グスタフとはよほど懇意にしていたんだろうと思ってな。いや、へんな意味で言っておるわけではないぞ」クリストファーは言った。
クリストファーの言葉に、リトル・シスターは胸をどきりとさせた。たしかに彼女とグスタフとは、ほんの数回だけ世間話をしただけの間柄である。彼の疑問はもっともだった。
だが、一方でクリストファーの少し慌てた様子は、彼が別の意図で質問したようにも思えた。
しかしながら、それきり老犬との会話は途絶えたため、彼女はこの会話で生じた違和感をそのままにし、沼地を進むことに集中した。

それからしばらく、ふたりは沼地を進んだ。草木をかき分け、水たまりの水が跳ねる音だけが周囲に響き渡る。
やがて、日が大きく傾き、あたりが暗さを増してきたころ、クリストファーが言った。
「だめじゃ、引き返そう。日没後に沼地をさまようのは危険すぎる。また、明日、出直そうじゃないか」
リトル・シスターはクリストファーの言にうなずいた。野外活動に関しては彼女は素人であり、ここはベテラン開拓者に従うべきだと思ったからだ。
だが、その時、彼女は前方の木立の隙間に、巨大なクスノキを発見した。
そして、不思議なことに彼女は思った。自分はあのクスノキを知っていると。
「クリスさん、農場はこの先にあるわ」リトル・シスターはそう言うと、クリストファーをおいて走り出す。
「おい、いきなりどうしたんじゃ? 待つんじゃ、お嬢さん。ひとりで行くのは危ない」老犬は彼女の行動に驚き、慌ててその後を追った。

***

農場は小高い丘の上にあった。農場の周りの斜面には、湿地には生育できないシイやカシ類といった樹木が群生し、独自の植生を形成している。沼地から見れば、その丘は海に浮かぶひとつの島のようでもあった。
リトル・シスターとクリストファーは、丘の斜面に農場への道を見出して登った。そして、斜面を登りきった先に、かつての農場が姿をあらわした。
おそらく、もとは美しく耕されていたのであろう畑は荒れ果て、雑草や低灌木が生い茂っている。また、農場の中心には建物に使われていた石材や、屋根や柱の燃えかすが散乱しており、かつてはここに農場の建物があったことを忍ばせている。
また、建物跡のすぐそばには、沼地から垣間見えた巨大なクスノキがあった。
リトル・シスターは農場のなかへと足を踏み入れる。
「(わたしはこの場所を知っている)」彼女は農場を歩きながら思った。
クリストファーは、何も言わず彼女の後について行く。

彼女は建物があった場所までやってくると、散乱している建物の残骸をじっと見た。
「(そうだ。たしかここが母屋で、その先に納屋と畜舎があったのだわ)」
彼女は建物の跡に分け入り、あたりを見回す。家の土台や暖炉に使われていた石は黒くすすけ、柱、床板、屋根など、木材でできていたものはことごとく灰になっており、当時の火災の凄まじさを物語っている。
そのうちに、彼女は残骸のなかから鉄の塊を見つけた。彼女はおもむろに、それを手に取る。
熱で曲がり黒くすすけているが、それは鉄の鍋であった。
突然、彼女の頭のなかに閃光が走った。

***

彼女は台所に立ち、間もなく帰ってくる夫のために夕飯の支度をしていた。かまどの鍋では、夫の好物の鶏肉のシチューが出来上がりつつある。今日は、王都との往復で疲れて帰ってくるはずだ。貴重な鶏肉だが、今日はこれを食べて元気をつけてもらいたかった。
突然、畜舎の方で、家畜の悲鳴があがる。
彼女は驚き、台所にある小窓から畜舎のほうを覗き見て息をのんだ。

そこには、数頭のアナグマの一団がいた。
アナグマたちは、なにかの動物の頭蓋骨を装飾品として身に着け、手には粗雑なつくりの斧を持っている。彼らは牛や豚たちに縄を掛け、無理やり畜舎からひっぱりだしているのだ。
そしてアナグマが放った次の言葉に、彼女は凍り付いた。
「おい、母屋に犬がいるか調べてこい。もしいたら、殺さずにつかまえるんだぞ」
彼女の心臓は早鐘を打ち、頭がぼおっとしてくる。
「(ここから逃げなければ!)」
彼女は自らを奮い立たせ、玄関のドアへ向かおうとする。だが、何かを思い出して寝室に行くと、枕元に置いてある宝石箱を手に取った。
貴族令嬢だった頃の彼女は、この箱のなかに数えきれないほどの宝石をもっていた。だが、貧しい農場での暮らしのなかで、生活のため宝石は少しずつ失われていき、今では夫から送られた簡素な木製の指輪がひとつ入っているだけだった。
彼女は宝石箱を革製の鞄に入れ肩に掛けると、戸口へと急いだ。

「誰かいたぞ!」
玄関を出たところで、一頭のアナグマが彼女を見つける。
彼女はとっさにクスノキの巨木に走り寄ると、幹の窪みやコブ、枝を足掛かりに、高所を目指して登りはじめる。
しだいに枝は細くなり、やがてそれ以上は登れないところへと到達する。そこは地上から二十フィートほどの高さの場所で、幹には手が入るほどの〈うろ〉がある。
木の根元にはアナグマたちが集まりはじめており、捕まるのは時間の問題だ。
彼女は鞄から宝石箱を取り出し、それを木の〈うろ〉へと隠した。
「これだけは何があっても渡さないわ」彼女は、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。

***

「お嬢さん、そんなところまで登っては危険じゃぞ。はやく降りてくるんじゃ!」
下の方から、クリストファーの声が聴こえる。
彼女は、突然、頭の中に沸き上がった過去の記憶を頼りに、クスノキの大樹のうえまでよじ登っていた。
だが、沸き上がる記憶は断片的なものであった。
それは、ネックレスの紐がきれてバラバラになった宝石のようであった。
彼女は懸命に宝石を拾い上げ、宝石の穴に紐を通そうとするが、そのたびに紐は千切れ、再び宝石は散らばっていく。
そのもどかしさに、彼女は幾度も悲鳴を上げそうになった。
「(農場でいっしょに暮らしていた夫、教会で泣きすがってきた老婆、ああ、思い出せない。わたしはいったい誰なの!)」
散乱した宝石に手を伸ばすように、彼女は大樹の〈うろ〉にゆっくりと左手を入れる。
そして彼女の手は、奥底にある何かをつかんだ。
彼女は、まるで失われた記憶を手繰り寄せるように、慎重にそれを持ち上げる。
果たして、〈うろ〉からあらわれたのは、記憶のなかで見たあの宝石箱であった。
彼女は震える右手で宝石箱の蓋を開いた。箱のなかには、真っ白い樹木から削り出されて磨き上げられた、白く輝く指輪が入っていた。

突然、彼女のなかに、失われたいくつもの記憶が流星のように押し寄せてくる。
数々の記憶を集めた彼女の心は、まるで宝石箱のように輝きに満ちていた。

侍従の言いつけを破り、黙って沼地に遊びに行き、挙句迷子になっていた自分を偶然見つけ、助けてくれた後の夫グスタフのこと。
沼地の農夫風情との結婚など認めないと、勘当を言い渡した父。
クスノキの下で、夫に指輪を送られ、永遠の愛を誓い合ったあの日。
貧しくても、毎日が幸せだった農場での日々。

バラバラに散らばっていた宝石は、寸分の狂いもなく、もとのネックレスの姿へと戻っていた。
今や、彼女の自我はかつての脆弱なものではなかった。
足元には大地があり、太陽は東から昇り西へ沈む。季節は、春が来て夏になり、秋が訪れ、やがて冬になる。時は、過去から現在にかけて連続しており、そして、その先の未来もまた同様に続いていくのだ。
彼女は完全な自分を取り戻した。そして、彼女は世界に対し、高らかに宣言した。
「私の名はアルマ・ボーダー=コリー。イアン・ボーダー=コリーの娘にして、グスタフ・ザッシュの妻!」

やがて、アルマは村の教会での記憶に思いをはせていた。
あの時、夫のグスタフは、自分を探してあの村へやって来たのだ。
そして、自分に記憶が無いことを知ったあとは、記憶が戻るのを、寄り添うように見守り続けてきたのだ。その時の夫の辛さやもどかしさは、いかばかりであったことだろう。
彼女の目にとめどなく涙があふれた。
「ありがとう、あなた。私のことをずっと探してくれていたのね……」
アルマは箱から指輪を取り、指にはめた。そして、涙を振り払うと、幹をつたって地面に降りた。

「あんた、まさか、記憶が戻ったのか?」アルマの様子を見て、クリストファーがたずねる。
「ええ、クリスさん。グスタフの妻でアルマと申します。私のことは夫から聞いていたのですか?」アルマが言った。
「ああ、そうじゃとも。あんたのことは、やつから聞いて知っていた。沼地の村の教会に、記憶を無くした妻がいるとな。だから、今朝、あんたが訪ねてきたとき、そうかこの女性かと思ったのよ。だが、話してみて記憶は戻っておらんようだったので、そのことには触れずにきたのじゃ。なんと、おまえさん、記憶がもどったのか。それは重畳」クリストファーは嬉しそうに言ったが、すぐに眉を曇らせた。
「だが、肝心のグスタフは行方知れずのままじゃ。あんた、これからどうするつもりじゃ?」
アルマには、自分がなすべきことがわかっていた。
それをするには、一刻も早く王都の教会本部へ向かう必要がある。村の教会にいるシスターには、明日、手紙で知らせるつもりだ。
アルマはクリストファーに言った。
「〈ヒトの教会〉で儀式を受け、牧師となります。そして、開拓団に入り、我が夫グスタフを探し出します」

 

作品展示室

Posted by たぐっちゃん